ちょっと得する紙の知識:第39回【風船爆弾】

「ちょっと得する紙の知識」のコーナー。第39回目は「風船爆弾」についてです。

風船爆弾とは

 風船爆弾をご存じでしょうか?風船爆弾とは、太平洋戦争時、和紙で作られた気球型の兵器のことです。直径10m程の気球に爆弾を仕掛け、それを偏西風に乗せて米国本土へ向けて打ち上げたのです。
 ちなみに、1945年8月にはオレゴン州でピクニック中の民間人6人(子供を含む)が風船爆弾の犠牲になり、亡くなっています。

出典: 1990年 埼玉県立滑川高等学校郷土部編集発行 「部報比企 第7号 小川町の和紙と戦争」 P43

起死回生を狙った最後の秘密兵器

 1941年12月の真珠湾攻撃から半年ほど、日本の戦況は悪化の一途を辿っていました。そんな折、打開策として考え出されたのが風船爆弾です。ちなみに「風船爆弾」とはマスコミの造語で正式には「ふ号兵器」と言うそうです。
 1943年8月、陸軍は第九陸軍技術研究所(登戸研究所)にふ号兵器の研究命令を出しました。それを機に、開発が急ピッチで進められ、原紙(和紙)の確保、そして和紙を貼り合わせるために使うコンニャク糊の確保が急務とされました。

増産体制の和紙

 風船爆弾に使われる和紙は、もともと薄いものですが、それをコンニャク糊で三層から五層に貼り合わせていきます。そして貼り合わせた和紙を球状にしていきます。
 1個の気球を作るのに約3,000枚の和紙が必要とされ、15,000発の風船爆弾を打ち上げる計画だったので、多くの和紙職人、それに貼り合わせ作業に携わる多くの人が動員されました。

埼玉県小川町と風船爆弾

 弊社のある埼玉県小川町も和紙の産地であることから、多くの紙が風船爆弾として提供されました(実は、もともと小川の細川紙は半数以上が軍需用でした。原料が楮のため強靭な和紙が漉けたからです)。
 また、貼り合わせ作業を行う工場として弊社も携わっていました(下表参照)。

出典: 2003年 小川町編集発行「小川町の歴史 通史編 下巻」 P516

動員された少女たち

 貼り合わせ作業に動員された人たちは、ほとんどが当時15~16歳の少女です。彼女たちは1日12時間という過酷な労働を強いられます。しかもノルマが課され、達成出来ない時は寝る間も惜しんで働いたと言われています。また眠気を抑えるため、ヒロポン(覚醒剤)を飲まされた、という証言も残っています。
 さらに、コンニャク糊に含まれている防腐剤が原因で、手荒れや水虫になったり、蒸気で充満した劣悪な環境から病気になったり、あるいは命を落とした人までいたそうです。

当時を伝える資料は?

 弊社の敷地内にあった当時の工場は解体され、残念ながら当時を伝える写真、資料等は残されておりません。もっとも、軍の命令で、証拠隠滅の為、ほとんどの工場で焼却処分にさせられたというから、資料が見つからないのも当然かもしれません。

戦争の愚かさを後世へ伝えるために

 小川の和紙が兵器に使われていたこと、また弊社が戦争に加担したという事実は重く受け止めなければいけません。
 今回のコラムは、今までと少し違った趣向でしたが、戦争に加担してしまった企業として、戦争の愚かさを後世に伝えていかなければいけないと思い、執筆にあたりました。

参考文献

林えいだい著 「女たちの風船爆弾」 亜紀書房 1985年
林えいだい著 「写真記録 風船爆弾 乙女たちの青春」 あらき書店 1985年
吉野興一著  「風船爆弾-純国産兵器「ふ号」の記録」 朝日新聞出版 2000年
鈴木俊平著  「風船爆弾」 光人社NF文庫 1984年
櫻井誠子著  「風船爆弾秘話」 潮書房光人新社 2007年
小川町編集発行 「小川町の歴史 通史編 下巻」 2003年
埼玉県立滑川高等学校郷土部編集発行 「部報比企 第7号 小川町の和紙と戦争」 1990年

*なお、資料に関して、小川町立図書館のご協力を頂きました。